『ミューズ・アカデミー』ホセ・ルイス・ゲリン監督インタビュー「映画は、ドアを開けるためにある。私たちはもっと遠くまで行ける」

本人は「恥ずかしい」というが、こんなところもゲリン監督のお茶目なところだ

本人は「恥ずかしい」ゆえのポーズというが、こんなところもゲリン監督のお茶目なところだ

スペインにものすごい監督がいる。その名はホセ・ルイス・ゲリン。奇しくもイニシャル(JLG)はあのジャン=リュック・ゴダールと一致するが、事実、ゴダールに勝るとも劣らない真に独創的な映画作家だ。

新作『ミューズ・アカデミー』はこの監督にしか撮れない映画であると同時に、彼がこれまで撮ったことのない映画である。

「そう言ってもらえるのは嬉しいね。交換のきく監督ではいたくないし、誰かに似ているなんて言われたくないしね」

そう、ゴダールがそうであるように、ゲリンは他の誰にも似ていない。

「『あなたにしか撮れない』と言われると、だから自分はいまここにいられると認識できるよ。これまでも私にとって映画を撮るということは、映画を発見することだった。映画を撮るということはドアを開けること。どこに連れていかれるのかわからないドアを開けることと同じ。これまで作ってきた映画も全部そうだった」

そんなゲリンだが、『ミューズ・アカデミー』はこれまでの作品群からさらに一歩、外に出た印象がある。

(C)P.C. GUERIN & ORFEO FILMS

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現代のミューズを探求する講義「ミューズ・アカデミー」。ところが語る教授は大学生や妻=女性たちに、男としての偏見を責められることになる……。ドキュメンタリーのような映像筆致に、洒脱なフィクションが降臨し、おしゃべりが高貴な何かに昇華していく。これまでも虚構と現実とが互いを抱擁するような瞬間を捉えてきたゲリンのこれは、大いなる飛躍である。

「初めて人物を中心に置いた映画になっていると思う。たとえば(代表作である2007年の)『シルビアのいる街で』にも人間は出てくるが、人物を描写したものではなかった。ここではミューズと呼んでいるけど、それぞれは骨と肉で構成された、実在する女性たちだ。私はここに出てくる人たちを信頼していたし、それぞれに独立した人生がある。だから無理に演出する必要がなかった。私は、あの人たちの最初の観客になった。(対象に対して)干渉しない。これはとても大切なことだと考えている。それぞれの人生はカメラの前でも尊重されるべきなんだ」

映っているものそれ自体が育ち、芽吹き、花を咲かせ、実を実らせる。そんな体験を私たちはする。

「助けることはしたよ。介入はせずにね。フィクションの中の人物になってもらうために。ドキュメンタリーではなくフィクション。そちらの方向に行けるように、助け舟は出した。あとは自由に任せた。ここに出てくる人たちは非常に言葉豊かな人たちだ。言葉を介して豊かな状況を作ることができる人たちだった。だから、映画的な対話を掘り下げていきたかった。言葉というものの価値がスペインでは下がっている。大切にしたかった」

(C)P.C. GUERIN & ORFEO FILMS

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確かに人物と言葉の映画だ。

「撮り始めたときは、これが映画になるかどうかもわからなかった。個人的な経験として、授業風景を撮っていた。少しずつその状況に重みが出てきた。そのことが、これが映画になる機会を私に見つけさせた。これはパラドックスなんだけど、映画の中の教授は現実でも教授だし、その妻は実際の妻だし、学生たちも実際の学生たち。だけど、現実はここまでで、あとはフィクションなんだ」

フィクションとは到底思えないリアルがここには映ってる。彼らの日常の前に、たまたまカメラが居合わせたかのような瞬間ばかりが記録されている。ゲリンはフィクションであることを強調するが、そのことは同時に、フィクションとは何なのか、私たちはフィクションに何を見て、何を感じているかの根源的な問いになる。

「フィクションは、感情を引き起こすためのものだ」

だとすれば、ゲリンの作り出すフィクションは、リアルな感情を引き起こす。そして、それがあまりにリアルだから、わたしたちはドキュメンタリーと錯覚するのだろう。

(C)P.C. GUERIN & ORFEO FILMS

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「疑問を抱いてほしいと思う。問いかけてほしいと思う。映画とは、内部の動きをあらわすもの。『ミューズ・アカデミー』はドキュメンタリーから始まって喜劇になる。途中では性をめぐる戦争になり、最後にはメロドラマになる。これはドキュメンタリーなんだと安心するのではなく、これは何なんだろう? と考えてほしい」

風景の中にある気配から、過去が立ち現れる。映画ならではの幻影と呼んでもいいかもしれないが、それがこれまでのゲリン映画の魔力だった。

『ミューズ・アカデミー』は言葉というものがどこから召喚されているかを、多様な肉体を通して示唆している。時代を超え、時空を超え、やって来る言葉たち。それはやはり、「いまここ」ではない「いつかどこか」から、訪れているのだ。ミューズという魔法の言葉はまさに象徴的だ。かつて神話の世界に存在していたミューズが、現代を生きるミューズに接続されるとき、わたしたちは慄然とせざるをえない。

(C)P.C. GUERIN & ORFEO FILMS

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「言葉はもともと音から始まっている。風とか、そういうものからね。西欧では、詩人と音楽家は同じ起源だった。だから、吟遊詩人も存在する」

ミューズ=女神を讃える教授は、同時に女たちにそれは女性蔑視だと怒られる。この対比構造がとにかく痛快だ。

「女性というものを一言では言い表せないし、女性と男性を対立させなくてもいいと思う。ただ、ひどい目に遭うのは教授であることは間違いない(笑)。それは僕が女性たちの視点に近いところにいたからかもしれないね」

ユーモアの存在も、これまでのゲリン映画にはなかったものだ。

「その指摘はありがたいね。ヨーロッパのユーモアが日本の人たちにわかってもらえるかどうか不安だった。詩や文学の話ばかりだと荘厳すぎるだろう? ユーモアがあるともっと遠くまで行ける。もし『ミューズ・アカデミー』からユーモアを取り除いてしまったら、まったく別のものになるだろうね」

(C)P.C. GUERIN & ORFEO FILMS

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もっと遠くまで行ける。この言葉は、ゲリン映画の総体を表している。彼の作品を見つめていると、映画というものはその都度、始原に戻って出発することができる唯一無二のメディアであることが体感できる。

「映像を撮る。音を録る。どちらも重要なことだ。だけど、その重要なことを誰もが(スマホで)できてしまう。映像の貴重さはもはや失われているのかもしれない。だからこそ、何を録るのか、どう撮るのか。このことはかつてないほど大切になっていると思うよ」

(取材・文:相田冬二)


『ミューズ・アカデミー』
2017年1月7日~1月29日まで東京都写真美術館ホールにて公開
配給:コピアポア・フィルム

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